愛媛県今治市と広島県尾道市ににある、17の城跡と地蔵鼻は「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-」のストーリーを構成するものとして、日本遺産に認定されています。
村上海賊に関連がある城跡の中には、島に歩いて渡ることができる島や1年に1度しか行けない島などもあり、今でも当時の石垣などの遺構を見ることができます。
この機会にみなさんも、村上海賊が利用していたとされる城跡を知り、当時の海賊たちの気持ちになって巡ってみてはいかがでしょうか?
日本最古の水軍城!甘崎城跡
今日は日本遺産に認定された「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-」のストーリーを構成する、文化遺産の城跡について紹介していきましょう。
まずは今治市上浦町甘崎の古城島にある、甘崎城跡(あまざきじょうあと)について紹介していきたいと思っておる。
(写真提供:Yumiko Tamai様)
よろしく、タケヨシさん、ウシオちゃん。
この甘崎城は、天智天皇10年(671年)越智氏によって築造されたと言い伝えられており、日本で最も古い水軍城になります。
またの名を天崎城ともいわれているんですよ。
古代では大山祇神社の東方鎮護として機能した島だが、古名は「アマノサキ」で、アマは海人を、サキは防人の意を指し、鎌倉期に海人(海武士)を取り締まるために城砦が築かれた(海武士から警護する)ことから始まり、由来はそこからきてる。
13世紀の元寇をきっかけとして、海武士の取り締まりから一転、海上交通の取り締まりをする役割を担い経て、南北朝期から戦国期にかけては村上水軍が東から下って来た船舶を捕捉して積荷を改め、通行税を徴収する拠点に至る。この税を生活の糧とした。
普段この島に上陸する事は出来ないんじゃが、年に何回か海面の高さが最も低下した時にだけ島と島の陸がつながり、歩いて渡ることができる。
http://www.imabari-shimanami.jp/spot/amazaki.html
年に1度しか行けない!能島城跡
能島城は、現在の愛媛県今治市宮窪町能島にあり、応永26年(1419年)に村上雅房によって築造されたと言い伝えられているんです。
能島村上氏は、この海城を本拠地としてあたりの海を支配していたんだけど、1588年(天正16年)に「海賊停止令」が秀吉によって出され廃城となってしまいます。
そんなのが出されたんだ。
この能島には、基本上陸する事は出来ないんじゃ!
しかし、安心せい!
1年に1回だけじゃが、4月の花見季節を迎えると臨時の船が出て、この島に上陸することができるんじゃ!
能島は逆三角形の形をした島で、その中心となる高台に本丸、それを取り囲むように二の丸、西の先端部に三の丸、南の南端部に東南出丸、東の先端部に矢櫃と呼ばれる曲輪があり、南の鯛崎島も鯛崎出丸となっている。 能島の周辺は潮の流れが速く複雑で自然の要害となっている。
http://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-310.html
武志(務司)城跡と中渡(中途)城跡
まずは、務司城跡から紹介していくぞい!
務司城跡
この城は1200年頃に、村上頼遠(むらかみよりとう)が築造したと言い伝えられており、今でも石垣や城のまわりの通路などが残っているんです。
今でも残っているんですね。
明治ごろには、この島で桃が育てられた事もあるんじゃが、現在はこの島も無人島になっておる!
中途城跡
ここの城跡は現在の中渡島にあり、平安時代のこの城の主は村上清長で、室町時代には村上海賊の本営になったそうです。
また、この島は日本初の潮流信号所となり、当時は腕木式(うできしき)潮流信号機というものを使って、潮の流れの向きを知らせていたんです。
腕木式信号機は二代目に変わるも、100年以上も前から海上交通の要である来島海峡の安全を守り続けてきたのでした。世界で、この来島海峡だけにしか残っていなかった腕木式潮流信号機も、時代の流れとともに灯台式へと変わっていきます。
潮流信号の電光表示方式への統一に伴い、平成24年3月をもって腕木式潮流信号機は幕を閉じることとなりました。これにより腕木方式による国内の潮流信号はすべて廃止となったのでした。
来島城跡
来島城は15世紀中盤に、村上吉房によって築造されたとされており、島の周りの激しい海水の流れによって、守られた天然の要塞と言われておる。
またこの島では、定期便が出ているから島内を見て回ることが可能ですよ。
お話もさせていただいたけれども凄くいい人達で印象的だったのよ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E5%9F%8E
国分山城跡
この城跡は、築造されたのは明らかにされていないのですが、1585年(天正13年)の秀吉による四国攻めで、城の主であった村上武吉は城を明け渡してしまう事になるんです。
後にこの城の主となる、藤堂高虎がこの城の最後の主だったと言われているんですよ。
今では、城跡のある唐子山の山頂とふもとの中間には、藤堂高虎の跡を継いで藩の領主となった、久松松平家の墓所がある、この場所は県指定史跡なっておぞ。
今治城を建てるのに、国分山城の物が使われているんですね。
http://otakeya.in.coocan.jp/siro/ehime/imabarisi02.htm
日本三大水城の一つ!今治城跡
この城は、吹揚城(吹上城)とも呼ばれており、1602年に藤堂高虎によって築城され、1613年に完成したといわれておる。
村上氏が去った後、国分山城に替わって藤堂高虎が築いた当時最新鋭の近世海城。来島海峡の地政学的重要性が村上海賊時代から継承されたことを示し、芸予諸島に残った海の人々がこの城を舞台に活躍した。
siryo05.pdf
便利ですよね。
日本三大水城【今治城】広大な内堀にサメやエイも現れる藤堂高虎の傑作
怪島城跡
現在の愛媛県今治市大西町別府にあった怪島城は、築城された年はわかりませんが、村上通康の家臣神野左馬允によって築城されたといわれているんです。
それは、見に行く価値ありそうですね。
島に行くには、自分の船やレンタルした船で行くしかない。
この島の近くには、釣りのスポットもあるんだけど、「怪島近くで釣り船に乗って夜を明かすと、侍姿の亡霊が出る」という昔からの言い伝えがあるらしいわよ。
それはちょっと怖い言い伝えですね。
村上海賊にゆかりのある城跡(広島県尾道市)
青木城跡
まずは、青木(あおぎ)城跡の紹介からです。
この城跡は、広島県尾道市 因島重井町にあります。
標高50.6mの山城で、因島村上水軍の村上新蔵人吉充が永禄10年(1567年)に本城としたものです。尾道のの南西、三原の南東約五里の位置にあり、本城を中心に北を大手、南を搦手とし比較的旧状を保った郭が5段連なり武者走りなども残っています。ここからは、三原瀬戸、布刈瀬戸、備後灘まで見え三原城の前面を押さえる最高の位置となっています。
青陰城跡
この城跡は、広島県尾道市因島中庄町にある。
青陰城より
因島のほぼ中央部、風呂山と龍王山にはさまれた標高275mの青陰山頂にあり、三床方面を除く島のほぼ全域及び周辺海域が見渡せられる場所に位置している。現存する郭は、龍王山との間を急崖で区切った三の丸を西端に、東側に本丸、二の丸と並び、東端の風呂山との間を掘り切り二の木戸(城門跡)を構え、北に下ると2段からなる屋敷跡と考えられる郭、更に一の木戸があった削平地に達する。
この城は海賊城ではなく、戦国山城であり、もとは長崎・青木・余崎などの連絡場所であったが、因島村上氏が戦国大名の性格をもつと、本城の役割をはたすようになったであろうと伝えている。後、村上水軍の第一家老救井太郎左衛門尉義親の居城と云う。
長崎城跡
この城跡は、広島県尾道市因島土生町にあります。
築城年代は定かではない。 南北朝時代に因島村上氏が最初に因島に築いた城と伝えられる。 その後180年間本城として使用され、弘治3年(1557年)村上新蔵人吉充が向島の余崎城へ移るまで続き、その後は村上吉之が城主となったという。
村上氏が因島を領した年代は定かではないが、金蓮寺棟札に村上吉資の名が残ることから宝徳元年(1449年)には因島村上氏が竹原小早川庶家の小泉氏に代わってこの地を治めていた。
地蔵鼻(鼻の地蔵)と美可崎城跡
まずは、美可崎城跡からじゃ。
この城跡は、広島県尾道市因島三庄町三ヶ崎にある。
美可崎城 尾道市より
三庄湾の南の岬にあり鞆,尾道に出入りする船舶を望見できる。郭は56.7mの岬の最高所を中心に南北へ二段の削平地,南東へ帯郭がのびている。岬の南にある入江は船隠しと言われ,この城は燧灘を行く船舶から帆別銭,駄別銭等の通行税を徴収する役目を負っていた。
美可崎城(因島三庄町)/ひろしま観光ナビ
次は、地蔵鼻の紹介をしていきたいと思います。
この地蔵は、因島の南側の半島の先にあります。
地蔵鼻/ひろしま観光ナビより
三ヶ崎の磯伝いに、地蔵尊が刻まれた自然石があります。その昔、村上水軍美可崎の船奉行が関所破りで捕えられた周防の商人の娘の美しさに魅せられ側女にしようとしましたが、娘が応じないのに腹を立て、殺してしまいました。それからというもの、夜ごと琴の音が渚から流れ、娘の亡霊に悩まされました。そこで岩に地蔵尊を彫り、その霊を慰めたという伝説が残っています。
地蔵鼻/ひろしま観光ナビ
岡島城跡
この城跡は、広島県尾道市向島町小歌島にあります。
築城年代は定かではないが弘治年間(1555年~1558年)に村上吉充によって築かれたと云われる。
因島村上氏の当主村上吉充は厳島合戦において毛利氏に与し、その恩賞として向島と宇賀島を与えられた。この宇賀島に築かれたのが岡島城で当時は向島とは別の島であった。 因島村上氏は長崎城から余崎城へと移り、永禄10年(1567年)には青木城へと居城を移した。このとき岡島城には城代として長崎城代であった村上備前守吉之が移ったという。
余崎城跡
この城跡は、広島県尾道市向島町立花(城山)にある。
因島村上氏の当主村上吉充は厳島合戦において毛利氏に与し、その恩賞として向島と宇賀島を与えられた。村上吉充は余崎城を築いて長崎城から移り居城としたが、永禄10年(1567年)には青木城を築いて居城を移し、余崎城には城代として鳥居次郎が在城したという。
俵崎城跡
この城跡は、広島県尾道市瀬戸田町鹿田原にあります。
広島県のお城より
城郭の存在する生口島は古くから小早川氏の領地であり、小早川氏の出城として築城されたと思われる。
15世紀に小早川の新庶家に当たる小早川惟平が生口氏を称し、本城郭の城主になる。
鳴滝山城跡
この城跡は、広島県尾道市吉和町にある。
築城年代は定かではないが元享年間(1321年~1324年)に宮地次政によって築かれたと云われる。 応永30年(1423年)宮地恒躬の時、大平山城の木頃経兼に急襲され落城、恒躬は討死し、恒躬の子明光は因島村上氏を頼って落ちたという。
百島茶臼山城跡
この城跡は、広島県尾道市百島町にあります。
1504 年、因島村上氏の村上喜兵衛義高が百島に築いた城。百島は、尾道と鞆の浦のほぼ中間にあり、山陽側の航路の要衝として重要な位置にある。
siryo05.pdf
村上海賊に関連する城跡アクセスマップ
赤のピンが愛媛県今治市で青のピンが広島県尾道市の城跡になっておる。
このマップを参考に、皆さんも村上海賊に関連する城跡を訪れてみてくださいね!
関連情報
http://www.imabari-shimanami.jp/spot/amazaki.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E5%9F%8E
http://otakeya.in.coocan.jp/siro/ehime/imabarisi02.htm
近隣の観光マップ「ついでにおいでや!」
今治市周辺の観光案内
①・今治みなと交流センター「はーばりー」
②・今治城
③・亀老山
④・大山祇(おおやまづみ)神社
⑤・タオル美術館ICHIHIRO
⑥・糸山公園
⑦・のまうまハイランド
⑧・かわら館
⑨・サイクリングターミナル・サンライズ糸山
⑩・村上水軍博物館
⑪・道の駅 よしうみいきいき館
⑫・カレイ山展望公園
⑬・鈍川温泉
⑭・ドルフィンファームしまなみ
⑮・イオンモール今治新都市